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 三国志とは?

ここでは、三国志の概要について書いてみようと思います。
三国志の時代背景は漢が崩壊しはじめ三国への分裂の時代にあたる。つまり、後漢末期の事と言えると思います。ではまず後漢の歴史に関する事について触れてみたいと思います。

三国時代とは厳密には曹操(そうそう)の子曹丕(そうひ)が、後漢の献帝から禅譲されて魏朝を開いた220年から、魏が晋の武帝に禅譲する265年までの45年間をさす。
もっとも263年には蜀が魏に滅ぼされているし、呉が晋に倒されるのは280年で晋の成立後、15年の歳月をかさねていることになりますが。。。

三国時代はわずか45年と短いが、この時代は隋の統一まで続く350年余りの分裂の時代の始まりであり、貴族制に象徴される中国中世社会の幕開けであった。

では次に三国時代の歴史についての概要ですが。。
献帝の譲位が蜀に伝えられると、劉備(りゅうび)は漢の正統を受け継ぐものは自分をおいて他にいないとして、成都で221年に即位し。国号を蜀漢としました。蜀は三国の中でも一番狭く、人口も少なかったので国力は微力でした。しかし初期にあっては諸葛亮(しょかつりょう)が丞相として劉備(りゅうび)、劉禅(りゅうぜん)を補佐して魏、呉と拮抗していました。彼は中原を治める事が国の根本になると考え国内の意見を統一させ呉と同盟を結び234年に五丈原に没するまで、魏と戦い続けました。ところが彼の死後は人材も乏しくなり宦官の黄皓(こうこう)がのさばり徐々に国力は衰えていきました。

孫権(そんけん)は魏朝から呉王に封じられたが、222年に年号を別に立てて独立の意思を示しました。彼が建業に都を定めて即位し呉の大帝となるのは229年のことです。彼は後漢末に父である孫堅(そんけん)、兄の孫策(そんさく)の事業を受け継いだ時から数えると、約半世紀にわたって呉を支配していた事になります。彼の治世の間は呉は繁栄していましたが、死後は急激に国内が乱れるようになりました。このように創業の君主一代の間は盛んであっても以後徐々に衰退していくケースは南朝にもしばしばみることができます。

呉の衰退は皇太子の孫登(そんとう)が父に先立って没したことがことのはじまりで、孫登(そんとう)の弟である孫和(そんか)が皇太子に立てられましたが、孫権(そんけん)がその弟の孫覇(そんは)を籠愛したところから呉の国内では将来の自分の繁栄を狙って皇太子派と孫覇(そんは)派にわかれての争いが生じました。

孫権(そんけん)は孫和(そんか)を廃して孫覇(そんは)には死を命じ末子の孫亮(そんりょう)を皇太子にしました。これにより多くの名臣がこの時に失脚することになりました。
孫亮(そんりょう)は11才で即位し一族の孫峻(そんしゅん)や諸葛格(しょかつかく)が補佐しましたが、孫峻(そんしゅん)が諸葛格(しょかつかく)を殺して政権を独占してしまいました。孫峻(そんしゅん)の死後は孫チン(そんちん)がその地位を受け継いで親政を企てた孫亮(そんりょう)が廃しました。しかし孫亮(そんりょう)の兄である孫休(そんきゅう)が第3代の皇帝になり孫チン(そんちん)をはずし政権を王朝の手に取り戻しました。しかし、孫休(そんきゅう)も実在6年で没し皇太子にはすでに孫休(そんきゅう)の子が立てられていたにもかかわらず、文武の才を兼ね備えているということで孫和(そんか)の子である孫皓(そんこう)が23才で即位しました。だがこの青年皇帝も即位すれば朝廷の様々な勢力に制約されて、12分にその才能を発揮することなくいずれは酒におぼれ、残虐な行為にも及んでしまった。彼は家柄の低いものを側近におき、揚州の名族を冷遇して他州出身者を重用しました。これも彼が貴族の束縛を解いて自分の権力を確立しようとしたからであるだろうし南朝にみられる寒人登用に通じるものがあると思います。

魏の国の歴史は、政権が曹氏から司馬氏に移っていく過程ですが、司馬氏については当サイトの英雄列伝の司馬氏を参照してくださいね。

さて最後に「三国志とは何か」についてですがこれに関しては人それぞれの感覚もあり非常に困難なことなのですが一般には日本では「魏志倭人伝」にでてくる三国志。または蜀を中心に描かれている三国志が有名なのではないかと思います。

ではそもそも三国志とはどんな意味なのか?
三国志の「志」には中国の歴史書の中では通常「史」という文字を使われた文献が多いのですが24種の正史の中で「志」となっているのは三国志だけです。

この「志」には古くは「しるす」や「記録」のような意味合いで使われています。つまり「史書」ということになると思います。
三国志の根本は史記をはじめとする多くの歴史書の中で晋の時代に陳寿(ちんじゅ)によって三国志が書かれました。陳寿(ちんじゅ)は蜀の生まれで、少年時代から歴史を学び、蜀王朝に出仕したが蜀が魏に敗れた時に野に下った。
陳寿(ちんじゅ)は数年間の不遇時代を経て晋の重臣であった張華(ちょうか)に認められ登用されました。この時に上司に諸葛亮孔明(しょかつりょう こうめい)の事を調査報告するように命じられ後に「諸葛亮集」24編を編集しました。


280年に晋が呉を滅ぼして後漢滅亡し天下を統一すると魏・呉・蜀三国の歴史の編集にとりかかりました。すでにこの時に彼は84才です。
こうして完成したのが「魏書」30巻、「呉書」20巻、「蜀書」15巻からなる「三国志」です。陳寿(ちんじゅ)の三国志は晋のてまえ「魏」を正統としているものの比較的バランスを保ちながら三国を簡潔に表現しています。この簡潔というふくらみに欠けるところを補っているのが南朝宋の(はいしょうし)が補足して出来上がったのが今日の三国志になります。更にこの内容を小説として蘇らせたのが日本でももっとも読まれている小説「三国志演義」になります。

日本で代表的な小説の三国志と言うと吉川英治氏の「三国志」だと思いますがこれは「三国志演義」を日本で最初の訳書である湖南文山訳の「通俗三国志」を下敷きにし吉川英治氏独特の世界観を加えたのが新しい「三国志」になります。これは陳寿(ちんじゅ)の三国志が「魏」を正統としたのに対し演義では逆に「蜀」を正統としている事が大きな違いです。

以上で管理人からみた「三国志とは?」については終わりますが結局個人的にいわいる「魏」を中心とした「正史三国志」と「蜀」を中心とした三国志演義」についてどちらがどうだという見解はせずにどちらも正統と言わせて頂きます。。

それは人それぞれに三国志に登場する人物に色々な思いがあるように管理人にも好みはありますしそんな事で争っても意味はないと思っているからです。このサイト内の人物伝でもどちらかの解釈という形では紹介していますが極力、それぞれの三国志に対する夢を壊さないようにまとめているつもりです。

正史からの方も演義でもマンガやゲームから三国志を魅力に思った方もいると思います。皆さんで仲良く三国志を語りあっていきたいと思いますので宜しくお願いいたします。

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