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 三国志の主要な計略
坑を掘って虎を待つの計(あなをほってとらをまつけい)
 坑は落とし穴の事で曹操袁術を攻めたが兵糧不足になり方向を変えて宛城の張繍を征伐に向かう。その時に劉備(これが坑の事)に呂布の監視をさせ呂布曹操の留守に本拠地に攻め込んでくることを防いだ。
空城の計(くうじょうのけい)
 馬謖が街亭の守備に失敗して司馬懿が大軍で押し寄せてきた時に諸葛亮は西城に退却したが兵はわずかに2500人。かたや魏軍は15万人。そこで諸葛亮は城門を全開にして人民に扮した兵士に街道を清掃させ、自分は城の上部で楽しそうに香を焚き琴をひいた。司馬懿はそれを見て何か計略があると思い伏兵に驚かされつつ街亭まで戻った。
 後日、諸葛亮の「空城の計」と解った時に天を仰いで「孔明(諸葛亮の字)にはかなわぬ」と言った。
 ちなみにこれはすでに漢水付近の攻防戦の時に趙雲が単騎で曹操の大軍を迎えた例や張飛の長坂橋での仁王立ちも似たような戦略である。
駆虎呑狼の計(くこどんろうのけい)
 魏の参謀である荀イクが考案した計略で劉備呂布との仲を絶つ為に「二虎競食の計」に続いて曹操に献策した。
 はじめに袁術劉備それぞれにお互いを討伐するように詔をだし両者の戦いを見て呂布(虎)が目の前にある徐州を劉備(狼)の留守の間に奪うであろうという読みであった。
 この計は途中まではうまくいき呂布が城を奪ったのだが袁術呂布との約束を破り兵糧や馬などを送らなかった為に呂布劉備と再び和解することになり作戦は失敗と終わった。
苦肉の計(くにくのけい)
 正史にはかかれていないが、呉の武将である黄蓋はわざと罰せられて背中を叩かれ、ひどい傷を負ったうえで曹操に投降を申しいれる。曹操に信用させて先制攻撃をしようとするが曹操も「私を苦肉の計でだますのか」と言うが、その時の呉の使者であったカン沢が見事に曹操を言いくるめて信用させた。
 自分の肉体を苦しめるので「苦肉」という。日本ではよく「苦肉の策」という言葉で用いられ意味は追い詰められた状態で何とか打開しようとするさまである。
十面埋伏の計(じゅうめんまいふくのけい)
 「袁紹」と「曹操」の倉亭の戦いの時に曹操の参謀である程イクが実行した作戦で左右に5隊ずつ合計10隊を伏兵にして敵を囲んで攻める計略である。
 ちなみに左の一隊は夏侯惇。二隊は張遼。三隊は李典。四隊は楽進。五隊は夏侯淵。右の一隊は曹洪。二隊は張コウ。三隊は徐晃。四隊は于禁。五隊は高覧。がそれぞれ率いて戦った。
縮地の法(しゅくちのほう)
 地脈を縮めて千里のかなたの様子をまのあたりにするという術。諸葛亮が3台のまったく同じ形の四輪車を用いてあたかも術を使ったの如く魏軍の距離感を混乱させた時に司馬懿諸葛亮が「縮地の法」を使ったと思い進撃を取りやめた。
魏を囲んで趙を救うの計(ぎをかこんでちょうをすくうのけい)
 時は戦国時代の斉の国に仕えていた「孫子」の著者でもある孫ビンは魏の国に攻められて苦しむ趙の国を救うため魏の都に攻撃をした。魏はあわてて都に戻ろうとしたが彼に敗れている。こうして趙の国を救った。
 三国志の中では「演義」で官渡の戦いの際、袁紹の食料基地である烏巣を曹操が襲撃した時に袁紹の参謀の郭図は、この計にならって曹操の本陣を襲えと主張していたが、烏巣を守る将である淳千ケイの怠慢によりあまりにも早く烏巣が落ちた為にこの作戦は失敗に終わっている。
増竈の法(ぞうそうのほう)
 後漢時代の策略。陳倉でキョウ族と戦ったが多勢に無勢。この時に退却をしながら竃の数を増やして援軍が加わりつつあるように思わせてふりきった。
「演義」では、諸葛亮に謀反ありの流言があり、召還された諸葛亮がこの方法で退却した。司馬懿は警戒して追わなかった。
天下三分の計(てんかさんぶんのけい)
 「三顧の礼」の時に諸葛亮劉備に提案した構想で、演義では、孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」を引いていて、「北は曹操の天の時を占むるに譲り、南は孫権の地の利を占むるに譲り、劉備には人の和を占むべし」と天下を三分で統括しいずれ曹操孫権を倒すというもの。この考え方は諸葛亮の創案ではなく、「論語」で周の文王が「天下を三分して、その二を有し、以て殷に服事す」という表現があり、「史記」の韓信にカイトウが、「あなたが漢につけば劉邦が勝ち、楚につけば項羽が勝つでしょう」として韓信にこの両国と共に天下を三分にする計を提案している。また、「蜀志」では諸葛亮が演義のような表現ではないがやはり似たような事を説いている。
二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)
 魏の参謀である荀イクの考案した計略。
二虎とは劉備呂布のことで二人の連携を断つために、劉備を徐州の牧に任命し、呂布の殺害を密命する。うまくすれば、呂布は亡きものになるし、失敗をしても劉備呂布に殺されるとの考え。しかし、劉備はこれが計略であることを見抜いて呂布を殺さなかった。
背水の陣(はいすいのじん)
 計略というよりも故事に近いくらい有名な陣形。
川を背にして陣をつくり、敵を迎え討つ戦法で、これにより兵士はより必至に戦うので戦に勝てるという作戦。
兵書「尉リョウ子」(ウツリョウシ)に見え、周の武王が殷を滅ぼしたときにこの戦法を使用したとあり、韓信が趙を破った例もあります。
「演義」では、魏の徐晃王平の諫めを聞かずに、漢水を背にして陣をはり戦って失敗しており、蜀の姜維はトウ水を背に戦い、魏の王径を破っている。
途を仮りてカクを滅ぼすの計(みちをかりてカクをほろぼすのけい)
 「春秋左氏伝」に見える故事で、晋はカク国を滅ぼす為に虞国の道を借り、ついでに虞国も滅ぼしてしまった。
演義では、呉の周ユが、「蜀をとったら荊州を引き渡そう」と言う劉備に対し、「私がかわりに蜀をとってやろう」といってこの作戦を行おうとしたが、諸葛亮に見抜かれて作戦は失敗に終わっている。
離間の計(りかんのけい)
 父子・兄弟・君臣などの間を裂く作戦で、感情のゆき違いなどを利用する。
「演義」では、楊彪の策で李カク郭シが仲間割れをし、カクの策で馬超韓遂が、諸葛亮の策で高定ヨウガイが、馬ショクの策で曹叡司馬イが、更に呉の周ボウは偽りの投降をして、魏の曹休をだます時に、「自分が信用されていないのは、離間の計にはまっている為だ」と都合の良いように利用している。
連環の計(れんかんのけい)
 「連環」というのは、手品などでいう、マジックリングのようなもので、司徒の王允が、董卓の暗殺為に、貂蝉を使って呂布董卓の仲を裂き、ついに呂布董卓を殺させた例と、有名なのが「赤壁の戦い」の前に、ホウ統曹操に対し、「船を鎖でつなげれば揺れが少なくなって、船酔いをせずにすむ」と言って、後の火攻めがしやすいように仕向けた例があります。
連弩の法(れんどのほう)
 計略とは少々違いますが、ここに掲載します。
 諸葛亮が臨終の際に後を託すべく姜維に授けた連発式の弓矢で、矢の長さは8寸、10本の矢を連発できる。諸葛亮は用いた事はなかったが姜維を追った司馬師が陽平関でこれに射られて退却をしている。
その後にも蜀のロ遜もこの方法を用いて南鄭関を守ったが、魏の鍾会に破られている。
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