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 三国志 魏・蜀・呉の軍隊
 三国志 魏の軍隊
 
 寡兵5000を持って挙兵した曹操は、曹氏一族と親戚の夏侯氏を中心とする親族軍を中核とし、その周囲に、早期に曹操の下に馳せ参じた武将が控えていた。
 これらの人物が率いる軍が中央軍で、禁兵とされるが、この禁兵には実際に曹操の身辺警護にあたるものと遠征時に曹操の手足として働く精鋭直属部隊との2種が含まれる。
 中央軍には、他に外軍があったが、これは受禅後に洛陽場外に置かれた軍のようである。これに対し場内のものを中軍と総称して呼んでいる。
 後に司馬氏は、中・外軍を自己の私兵としてついに幕奪・禅譲に成功する。魏の兵権が中央に集中されていたことが禍になってしまったとも言える。
 地方軍とされる四征将軍が率いる軍も初期にはその方面への討伐に対して随時、曹操から任命された将軍が自己の軍団を率いて出陣したと考えられているがやがて一定地域の軍事に対しての責任を付与されるようになった。
 魏軍は、華北での戦闘のなかから成長した為、騎兵部隊が中心であった。
 馬の産地である地方を占有していたので騎兵軍の拡大しつつ、烏丸軍の帰順により烏丸騎兵を中心にして蜀や呉の騎兵を圧倒していた。

 三国志 蜀の軍隊

 蜀は三国の中で最も土地が狭くて人口もすくなかった。当然の如く兵力も魏・呉に比べると劣っている訳であるが国を保持していた理由には勇猛果敢な異民族兵を駆使し、歩兵・騎兵・車兵・弓兵を地形に応じて縦横に組み合わせた。これは諸葛亮の戦略であったようだ。
 有名な八陣もまたその組み合わせによるものです。
 戦車を利用した小方陣をいくつか合わせて大方陣を作り、歩兵と弓兵を陣の中に交互に配した。陣の前方には障害物を置き、騎兵部隊を陣の両側と後方に配した。敵の騎兵による攻撃には、はじめ弓兵が戦車を盾にして応戦し撃退させる。敵が陣に来たら歩兵が長槍を用いて応戦する。敵が陣の中まできても戦車が障害となり敵の隊列を乱す事ができ、各小方陣の弓兵・歩兵が敵と交戦することになる。騎兵は両側から敵の側面、あるいは背後にまわり敵を包囲する。また、敵が退却すれば追撃する役目がある。
 しかし国力の劣る蜀はいつも食料・兵力の不足に苦しんでいた。諸葛亮の戦略のみではどうにもならなかったのであろう。

 三国志 呉の軍隊

呉の主力は水軍であった。大船は長さ約50mでおよそ600人くらいを積載していた。
 台湾、遼東半島付近などへの遠征も行われていていた。保有数はおよそ5000となっているが大半は小回りのきく船であったと思われる。
 赤壁の戦いは蜀との連合軍という意味合いが多いがその殆どは呉の水軍の活躍によるものであった。この戦いで用いた船は「もうどう」と呼ばれる快速小船、「とうかん」と呼ばれる軍船。などが中心であった。数では大きく勝る魏軍に勝利したのは水軍の弱い魏軍に対し、周瑜を中心に水軍の強い呉との差がでたのかもしれない。

 三国志 当時の軍規
 ここでは当時、使用されていた軍の規約を掲載します。とりあえず蜀の諸葛亮の作成したと思われる軍規ですが曹操にしても孫権にしてもさほど内容は変わっていないと思いますので。。
 一、軍を軽んずる行為
   (遅刻する、返答をしない、進軍の合図で進まない、勝手にとまる等)
 二、軍をあなどる行為
   (不正確な伝令、命令の不伝達、合図の見逃し、命令の聞き逃しなど)
 三、軍を盗む行為
   (他人のあげた敵の首を横取りする、賞罰の時にえこひいきをするなど)
 四、軍を欺く行為
   (姓名を勝手に変える、装備が不完全、軍令に従わないなど)
 五、軍に背く行為
   (しりごみして戦わない、負傷者の救援を口実に戦わないなど)
 六、軍を乱す行為
   (先陣争いをして軍を混乱させる、統率を無視して勝手に行動する)
 七、軍を誤らす行為
   (大声でデマを言ったりすること、親しい者だけで食事をすることなど)

非常に厳しい軍規があったようですが逆に言えば大勢の兵士を統率するにはこれくらい厳しくないととても管理できなかったのでしょうね。
 
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